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approach No.2 串尾一輝 ー 俳優のアプローチ

approach No.2 串尾一輝 ー 俳優のアプローチ

聞き手:渋革まろん 日  :2016年12月14日(水)

第二回は俳優・串尾一輝さんの登場です。 堀北真希と結婚する野望を抱き、明治大学の実験劇場、そして無隣館を経て現在は青年団に所属。稽古場で見る串尾さんは一体何を考えているのか計り知れない「穴」のようです。自分のことを「空洞なんです」と言う彼は、一体どのようにしてハチス企画の演劇に取り組んでいるのでしょうか?

さらに24歳・男性の串尾さんが「老婆」役を演じる。さて、どうするつもりなのでしょう?

いまだ結末の見えない「戦い」の軌跡を伺いました。

串尾一輝 2016.8.15 ≪吉原洋一『あさしぶ』より≫

串尾一輝 2016.8.15 ≪吉原洋一『あさしぶ』より≫

■ 全ては堀北真希からはじまった

―串尾さんが、演劇に関わるようになったきっかけを教えてください。

僕は広島で生まれ育ったんですけど。やっぱり地方だとまだまだ、特別関心でもない限り演劇に触れる機会ってほとんどないと思うんです。

僕もその一人で、テレビに出れない人が出てるのかなくらいの認識でした。

それで、演劇をはじめるきっかけは・・・・・・あんまり言うと怒られる人には怒られちゃうから人を選んで言ってるんですけど、堀北真希と結婚したかったからなんです。

―堀北真希と・・・?

西日本で僕が一番好きだと思います。堀北真希。

それで、どうしても結婚したくて、堀北真希と結婚できる職業ないかなと思って、考えたのがテレビ局への就職。でもテレビ局だと堀北真希をご飯に誘って堀北真希が来てくれるっていうのは・・・・・・僕が偉いじゃないですか。対等じゃないなと思って。

―そこまで想定していたんですね。

やっぱり対等にいきたかったんで、これは俳優だ、と。

それで、母に「大学にはお願いだから行ってくれ」と言われたんで、とりあえず勉強で入れてお芝居が出来そうなところを調べた時に、明治の演劇学専攻というところがあったので、受験しました。

演劇学専攻なのでみんな演劇をはじめる感じで、僕もその流れに乗って明治大学の「実験劇場」に入ったんです。

―実験劇場はどんな演劇をするところでした?

実験劇場は唐十郎がいたというのが売りらしいです。明治大学の中でも古いサークルで、唐十郎がいたくらいなのでアングラな劇団だったんですけど、僕らの先輩くらいの代からポップな感じになって、僕はポップな風土ですくすく育ちました。

―その後、無隣館に入所されまよね。そこで学んだことを教えてください。

無隣館に入って、オリザさんの『演劇入門』など読んで、今まで漠然とやっていたことが言語化されていたことに感動しました。それまで、演技は才能、俳優はスター的な存在だと思っていたんですけど、演技は技術なんだなと思ったのが無隣館です。

僕は、観客席を向いて芝居するとか、エモーショナルな音楽をかけてモノローグをバーっと喋るみたいなポップな演劇環境で育ったんで、現代口語演劇の「舞台上でリアルをやる」ことにまず感動したし、こういう風にセリフを言って良いんだ、と。

例えば、無隣館でオリザさんのWSを受けた時には、「ここで間をとりたいから、俳優的にはじっくりやりたいだろうが前の間は詰める」というのがありました。考えて考えてセリフの言い方や間を組み立ててるんですよね。

それは演出的な作業でもあるんですけど、そういうことに気づいたのは大きかった。それまでは俳優って「自分が自分が」のイメージでしたけど、アンサンブルで作品を作る発想を学んだように思います。

■ ハチス企画/空っぽの身体

―串尾さんが受け取った演劇教育は、現代口語演劇を立脚点とする日本的なリアリズムの方法だと思います。しかし、ハチス企画の演劇は「リアリズム」から大きく逸脱するものです。串尾さんから見て蜂巣さんの演出はどんな印象なんですか?

言ったら、蜂巣さんに見られるんですよね?

―蜂巣さんどころじゃないですね。

はじめて一緒に作品を作ったのは、ハチス企画『授業』でした。

そのときは・・・・・・たまげましたね。

当時は蜂巣さんが何を言っているかわからなかったんですよ。僕自身の演劇経験が、ポップな演劇や現代口語演劇といったものだったので、はじめてああいう・・・・・・何ていうのかな、ドラマが主題になくてセリフ一つ一つだったり、その人のあり方―身体や声―を徹底的に追求していくような芝居を経験しました。

蜂巣さんは(僕と)全然違う言語を持っている人だと思いましたね。

―これまでに出演した蜂巣作品を教えてください。

イヨネスコ『授業』、sons: wo『水』(作:カゲヤマ気象台)と、今回の『木に花咲く』です。

『授業』の時は、言語を共有することばかりに時間がかかって。『水』で共通言語が出来たかなと思ったんですが、今回はまたカオスです(笑)。

―僕は前回の『水』でハチス企画と串尾さんを初めて拝見したんですが、空気の中を泳いでいくような身体の使い方が印象的な作品でした。

あのときは、稽古場だけのテーマとしてSF感ということがありました。知らない惑星に突如ワープしちゃった3人という設定。

それで、無重力を漂うような、記憶を呼び起こしていくような身体の使い方が出てきたんです。

―その串尾さんの身体からはどこか「空洞感」が感じられました。なにか・・・・・・本当は空っぽ、みたいに思えて、興味深かったです。

そうなんですよ。

空洞なんですよね。僕、人の気持ち考えられないんですよね。役の気持ちになって演技するって出来ないんですよ。

だから毎回、目に見えることしか出来ない。悲しそうにするとか、喜んでいる感じにするとか。

外側のことしか出来なくて、内側が空洞なんです。僕にとって俳優は、自分の身体を容れ物にして、何か別のものをやるということかもしれません。

―ハチス企画でも、それは同じですか?

いえ、普段は結構、外側ばっかり意識してるんですけど、ハチス企画のときは、普段使わない「内側」になんとかエンジンをかけなければいけない。

リアリズムのときは、家や稽古場の休憩時間で「この役はどういう心情なのかな」とか考えるんですけど、演じているときは「外側」を意識しています。けれどハチス企画のときは演じている最中も「内側」にエンジンをかけないと、何ともならない。

『水』のときも、今までで一番「内側」のエンジンを入れてましたね。

僕は演技を決めてしまうところがあって、その場に身を委ねることが苦手なんですけど、ハチス企画ではそういう部分が鍛えられますよね。

■「老婆」役との戦い/人になること

―今回は男性の串尾さんが年齢も性別も異なる「老婆」を演じます。オファーを受けて驚きましたか?

僕が老婆をやること自体には驚きはなかったです。

蜂巣さんの演出は、色々な要素を抽出していって、それを俳優の身体のあり方で表現するものなので。

―それでは、『木に花咲く』に対して、どういった印象を持ちましたか?

最初は、僕と蜂巣さんの一対一の稽古とかあったんです。だから、『木に花咲く』は老婆の話だと思ってたんですね。若い男の俳優が老婆をどう演じるか?のような芝居だと思ったんです。最初は。

でも全員で読み合わせてみると、老婆一人の芝居じゃなくて、関係性の演劇だというのがわかってきました。

戯曲の上では、老婆の視点で語られているようにみえますが、社会と自分とか、家庭の中での色々な関係がどうにもならなくなって最後の結末に至る。

それを、今回はたまたま老婆の視点で見ている、ということだと思います。

―稽古ではどんな風に老婆役へアプローチをしているんですか?

最初は、いわゆる「老婆」になることを目指したんです。しわがれ声で姿勢を丸くしてやる。でもそれだと本物の老婆には敵わない。なにか嘘くさくなって僕がやる意味がない。

それで色々と試行錯誤しています。例えば老人って震えてるじゃないですか、だからすごく震えてみたり。

衣装も当初は黒いピタピタの服を着て、モノクロ人間が老婆になっていく様を観客に見せることを目指していましたが、今は老婆そのものをやる方向に変わってきています。

―手応えはどうですか?

稽古場で色々と試していったものの中に、少しずつ別の手応えがある感じです。

ハチス企画の稽古だと、本番の1ヶ月前は、色んなことを試してはやめて・・・・・・を何度も繰り返すので、なかなか稽古はカオスってます。

でも、そこで得てきたものは完全に棄てられるのではなくて、蓄積されていく。このカオスな期間で膨大なものを蓄積していって、良いものを組み合わせていきたいと思います。

―今日の稽古(12月14日)は、なかなか苦戦しているように見えました。

今までの蜂巣作品で、僕はいわゆる人形だったんですね。人形に近かった。没個性的で、その人の社会的背景とか年齢とか、そういったものはあまり関係がなかった。それでテキストの文字自体をどうするか?が課題でした。

前回の『水』の時も、シーンごとに記憶の断片を呼び起こしていって、このシーンはこの記憶で、次のシーンはまた別の記憶で・・・・・・という風に、1シーンずつに記憶がリセットされる記憶人間みたいなものでした。

でも今回は、僕が「老婆」という属性を持った「人」の役だから難しいんです。しかも、僕とは全く別の背景を持った。ハチス企画で、こういう一貫性を持った「人」をやるのは初めての経験です。稽古場でも僕が変な動きをすると、人ではあって欲しいと言われることがあって、僕も怪物にはなりたくないと思います。

―怪物になりたくない、というと?

俳優として、「人」が出来ないのが悔しいというのもあります。日常を離れた挙動や声で非日常を達成するのは、ある意味で簡単なんです。

それが(上演と)ピッタリだったら表現になるけれど、「逃げ」と紙一重だと僕は思っています。

演出家としてはわかりませんが、俳優としては。今回は、ちゃんと「人」にチャレンジすることをやってみたい。

―では、これから「老婆」に対して、どうやって攻めていきますか?

今はまだ模索段階ですが、一番の失敗は「これ串尾の必要あったかな」ということで。

僕がやる必然は何なのか。その回答を用意していきたいと思います。

おわり

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