蜂巣ももの演出について 触知された世界から〈傷〉の秘密へ

January 14, 2017

 

 この文章を書いている時点で、ぼくは稽古を何度かのぞき、通しを一度だけ見ている。

期間としては十月から三ヶ月程度。蜂巣もも、そしてハチス企画を見ていく中で、脳裏によぎったいくつかのイメージを書き留めてみたい。

 

 

 『水』。初めて蜂巣ももの演出作品を目にした時。カゲヤマ気象台が筆を執り、蜂巣が演出をしたその作品は水の底に引きずり込まれ溺れていくような時間を感じさせた。

 「時間」というのは不思議な言葉だ。時計で測ることの出来る「時間」がある一方で、計測不可能な「時間」がある。深夜の夜勤労働で意識をシャットアウトしようとする脳みそに抗ってなんとか目を開けていようとする時、その苦痛に耐え続ける時間は、長い。夜勤労働の賃金が割増されるのは、眠らない時間の苦痛を感じ続けることが仕事だからだ。蜂巣作品に出てくる俳優たちも、これと似たような仕事をしているように見える。社会学者の岸政彦が書いた『断片的なものの社会学』から引く。

 

「肉体を売る仕事とは、感覚を売る仕事であり、そして、感覚を売る仕事とは、「その感覚を意識の内部で感じ続ける時間」を売る仕事でもあるのかもしれない、と思う。」(※1)

 

 

 蜂巣の作品が捉えている時間とは、プロット的に整理された時間でもなければ、俳優の心理が読み取れるように仕組まれた時間でもない。むしろ、「ある感覚を感じ続ける彼/彼女(俳優)」から生じていく極めて身体的な時間であるように思える。

 

 演出家には作品を創作することと並行して、稽古場を組織・運営する役割が与えられることが多い。その方法は人それぞれであるが、ミニフォーラムに出演していただくということで拝見した柴幸男氏と玉城大祐氏の稽古では設計図やプログラムが予め用意されていて、それを基本軸としながら稽古の進行を組み立てていくスタイルをとっているようだった。

 ハチス企画の稽古場に目を転じると、その運営のされ方は戯曲という泥の中に手を突っ込んでまさぐっていく、そんな風な進行に思えた。蜂巣が老婆役の串尾に「震えてください」と言う。ヨシオ役の山本に「足音をさせないで、こんな風に地面を踏みしめながら歩いてください」と言う。フミエ役の植浦に「ここは戦場だから、銃で撃たれてくれ」と言う。毎回のけいこを見ていたわけではない。だが、その指示の一貫性、あるいはルールがぼくには読み取れない。蜂巣は、そうした指示を与える中で、何か・・・・・・別役実が自身の作品を解説して「盲が象に触れる」と言ったように、漠然とした巨大な象の感触を確かめようとするかのようにけいこを進める。ぼくは、ジュネがジャコメッティの彫刻について語った一節を思い出す。

 

 

「ジャコメッティ、あるいは盲者のための彫刻家。・・・・・・ジャコメッティの眼ではなくまさに手なのだ、彼の事物像、彼の人物像を制作するのは。彼はそれらを夢想するのではない。体験するのだ。」(※2)

 

 

 蜂巣もも、彼女もまたそのように演出しているのではないか。眼ではなく手。戯曲を見えるようにするのではなく、戯曲を手で触れるようにすること。そこで俳優のカラダは、別役実が提示する時間を触知するための装置となる。ある感覚を感じ続ける―肉体労働を捧げる生贄。

 

 

 1月8日に通しを見る。壁に備え付けられた布団を背にして、串尾は言う。

「さくら、さくら、やよいの空は・・・・・・。また春だよ、ヨシオ・・・・・・。またいつもの春がきて、またいつもの花が咲いた・・・・・・」。

自らの歌の情感に溺れるように喋る老婆の時間は、入れ代わり立ち代わりタンスの中から現れる家族によって中断させられる。彼らは老婆と目を合わせて対話することがなく、老婆とは別の空間に存在しているかのようだ。

上演の前半では、頭に包帯を巻いた孫のヨシオがランドセルを老婆の膝にして眠り、夫・妻・息子(ヨシオ)の三人が何の脈絡もなく正座して正面を向いたかと思うと、妻のフミエが老婆の言葉を引き金に撃たれて倒れる。後半では、老婆の死んだ夫から湧いてきた(?)アリをつまんで殺し、夢うつつを彷徨うように、刃物を持った老婆が舞台をうろつく。

上演の進行とともに、いま起こっていることが夢なのか現実なのかが曖昧になり、非論理的なイメージの脈絡が前面に押し出されていく。これは悪い夢だ、と思う。もしかしたら〈家族〉という関係の力学によって必然的に繰り返される〈悪い夢〉があるのかもしれず、延々と繰り返される桜の季節に閉じ込められたような老婆の姿は、家族の中に抱え込まれた〈傷〉なのかもしれない。

 こうした〈傷〉は普通、見えない。またしてもジュネの視覚を借りれば、〈傷〉は外からはうかがい知ることの出来ない秘密であり、「盲者のための彫刻家」であることによって、つまりは触知される世界を露呈させることによって初めて現れてくる存在の位相なのである。

 蜂巣ももを語る際に言われる「身体性」なるものも、この〈傷〉を触知するための必要性から要請されるものであり、彼女の視座から見える別役戯曲、そして演劇は、ぼくたちが知らず知らず抱え込んでいるかもしれない〈傷〉の秘密を露出させる行為なのだ。これが、三ヶ月という期間に渡って、ぼくが”観劇”したハチス企画の物語だった。

 

 

※1.岸政彦『断片的なものの社会学』,2015,朝日出版社,p.139 / ※2.ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』(1957),翻訳 鵜飼哲,現代企画室,p.45/※3.前掲書、p.23掲載画像より引用。

 

 

 

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