approach No.4 植浦菜保子ー俳優のアプローチ
approach No.4
植浦菜保子ー俳優のアプローチ
聞き手:渋革まろん
日 :2016年12月21日(水)
あえて、こう問うてみたい。役者とは何だろうか?
こうした本質論は実りのない空論で終わるものだけれど、植浦さんの抱く「役者像」を聞くと、単に「役を演じる」だけじゃない役者の姿が浮かび上がってくるようです。
植浦さんは『木に花咲く』メンバーの中でも、最初期の『授業』からハチス企画に関わってきました。
そうした時間の中で、演出家と俳優のあいだに「良い関係」が生まれた時、演出も作品も俳優も・・・・・・その関係でしか生まれない、そして彼/彼女にしか出来ないパフォーマンスを発揮して、観客の心を動かすのかもしれません。
このインタビューには、植浦さんと蜂巣さんが関係していく中で培われてきた多くの発見が散りばめられています。
一緒になって彼女らの《発見》を楽しんでください。
無隣館若手自主企画vol.1 ハチス企画『授業』 右:石川彰子(青年団)、左:植浦菜保子
(撮影;宮石悠平)
■直角に曲がる
植浦さんが演劇に関わるようになったきっかけを教えてください。
演劇をやるために、2011年4月に大阪から上京してきました。
4月から一年間、演劇学校に通って、一年間フリーでやった後、無隣館に入って。
演劇を大学入るときには見たこともないし、演劇学部も聞いたことがない、くらいの人で・・・・・・よく「芝居をはじめたきっかけは?」って聞かれるんですけど、具体的になんでだったのかあまり覚えてないんですよね。
私は幼児教育学部にいて、人間とか家族には興味があったんです。最初は海外で働こうかなと思っていたんですけど、何回か海外に行っているうちに「違うわ!」って思って。
やりたいことが薄れた時にあったのが・・・・・・芝居・・・・・・何で急に出てきたんだろうな・・・・・・
不思議ですね。
不思議。これっていうきっかけが全然記憶になくて。でも猛烈に惹かれちゃって。
実習とかも全部終わって、気づけばあと一年で卒業だったのに。もう無理だと思って、贅沢なんですが大学を辞めました。3月に退学届けを出して4月に出てきた。
その、ちょうど、大学をやめようとしてた時に、大阪でナイロン100℃と大人計画を見ました。めっちゃ「うわ〜」って思ったのを覚えています。
松尾スズキさんが雑誌でその当時の公演について喋っていて、そういうのを読むのが好きで、こういう仕事をしている人達にすごく興味を持って。
大学のやめ方がエキセントリックです。真っすぐ歩いていたのに突然、直角で曲がるみたいな動き方。
そうですね、急角度で曲がる。
熱しやすく冷めやすいと思ってたけど、演劇は続いているから好きなんだろうなと思っています。
『木に花咲く』稽古写真
■関係が生まれる、作品が生まれる
無隣館にはどういう経緯で?
友達が受けるって話を聞きまして。私はオリザさんの作品を見たことはなかったんですけど。
友達が「いま応募用紙二枚持っているから一枚あげるよ」って言って、〆切当日着くらいで送ったんです。それから急いで作品を見て。
サンプルとかハイバイもすごく好きだったので、その人達のワークショップを受けれるのが良いなって思ってたけど、本当、偶然でした。
私は大学で演劇をしていたわけでもなくて、出会いもつながりもない状態だったから、無隣館の二年間で色々な関わりが出来て、そこから色々と広がって、何のつながりもなかった自分にはありがたい場所でした。俳優って単純に出会いの仕事だから。
ももちゃんにもそこで出会いましたし。
蜂巣さんとの作業はイヨネスコ『授業』の創作が初めてですか?
無隣館の時に『ゴドーを待ちながら』の授業発表があったんだけど、ももちゃんがもう一回やりたいって言って、小さなイベント会場でやりました。それが実は一番最初。
その後に、『授業』を一緒に。
蜂巣さんの演出はどんな印象ですか?
うーん、作品ごとに印象は違うけれど、今回は、出会ってから時間が経っているし、お互いの変化もあって、創作の仕方が変わったな、と思います。
あと、他の現場だと「○○」というタイトルの作品がドンとあって、そこに役者と演出家で入っていく感じだけど、ハチス企画の場合は、作品と並んで蜂巣ももがいる。
だから作品を深読みしていく作業だけじゃなくて、ももちゃんの言葉に耳を傾けながら作品を見ていく、そんなイメージがあります。
稽古を見ていると、作品の意味へ直接向かうのではなくて、蜂巣さんが掴んだ戯曲の手触りを俳優と共有しながら進んでいく印象があります。
戯曲の意味を読み解くことよりも、戯曲の「感触」が大事にされている。
だから、つい感覚的な言葉が多くなっていきがちなんですよね。
けれど今回の稽古場では、蜂巣さんがポンと投げるモヤッとした投げかけに対して、植浦さんが鋭い指摘を返して、稽古場の霧を晴らしていくような場面に何度か遭遇しました。
植浦さんは意識的にそういうスタンスをとっているんですか?
それが、時間が経って変わったことの中身でもあるんですけど、
『授業』は、私と串尾くんと石川さん、同期の俳優三人が初めて創作した作品ということもあって、みんなが塊になって作品の中を「グゥグゥゥ」と動いていく時間だったんです。
みんな頭が発熱してる、みたいな。小屋入りでも演出がまだ決まらなかったり。
でも稽古していく中で、ももちゃんに「質問して」と言われることが増えたんです。だから「あ、質問して良いんだ」って思って。
よく悩んで考えている人に対して、いま話しかけちゃいけないと思ったりするんですけど、ももちゃんの場合は、あたしだけが正解じゃないから、って言う。だから、彼女だけの感覚に偏らないためにもあたしはこう思ったよ、って言うことは言う。
それで作品を多角的にしたり広げていくアイデアを投げかけていく感じです。
どうしてそういう関わり方をするのでしょう?
やっぱり苦しむ時間が長くて。深く潜ってウロウロしているのって。
今日の稽古では、私をどういう動物にするかって話になったけど、あそこで悩むと時間がとまる。
そういう時間ももちろん必要なんですけど、逆に一個ハマれば、稽古はぐんと進む。
でも進まない日はずっと同じシーンで悶々として「違うなぁ」ってなったり、セリフの合間とか言い方の調整になっていく。ずっと深みにいくとネタも尽きるし頭もパンパンになるから、一回そこからはなれたり大きくズラすこと、一回やめてみる事も大事なんだって、ももちゃんとの作業で学んだから。
停滞しそうな時には、自分の言葉やカラダをポンと投げかけてみる。
それを結構・・・・・・意識してやってるわけじゃないけど・・・・・・単純に、一緒に作っている人が楽しくないのが嫌なんです。稽古が良い状態でなければ、作品は良い状態にならないと思っていて。
面白い稽古になればいいなと思っています。
一般的に、俳優は「役を演じる」仕事だと理解されているように思うんです。
でも、植浦さんはアイデアを出して劇の時間をどう進めていくか考える「共同創作者」的な部分も含めて、役者の仕事だって意識があるように思います。
私が思うハチス企画の場合、稽古、というより、クリエイション、って言葉の方が作業内容がしっくりきます。
例えば今回の稽古場では、わたしが『木に花咲く』を読んで思った自分の今までの話とか、そういう日常の話をしたんです。各々の役者が「俺の家族ってこうだったから」みたいな話をして。
そうやって戯曲を通してだけの話でなくて、各々の俳優とももちゃんがまず集まったところからはじまるというか。
芝居をします!みたいなスタンスだけを稽古場に持ち込むと、作品が上手く回らなくなる気がして。
まぁ芝居をしてる事に変わりはないんですが。。
あと、今回は年齢や経歴が様々な俳優陣と多彩なスタッフが関わってくれている。
『授業』は4人だけの時間が多くて閉じた空間で作っていたから、ストレスや圧も各々に強くなるし、ももちゃんも窮屈になっていた。いまは、ももちゃんが開いているから、こっちも開ける。
今回の作品はってこともあるし、単純に何回か作ってきたから共通言語のようなものが出来てきたこともあって、自由になれやすい。
前は「何かやって」と言われても「え、何をやればいいの?」からのすり合わせだったから。「何かやってくれないとわからないんだけど」とか言われても「え、何かって何?」みたいな(笑)。
蜂巣さんと、演劇をやる上での「良い関係」が生まれていって、それが作品や稽古場への関わり方も変えていく。
関係が出来ていくことが、作品が出来ていくことにつながっていくのですね。
それは何度も一緒に作ることの魅力だなってあらためて思います。
『授業』舞台写真 右:石川彰子(青年団)、左:植浦菜保子
■フミエについて/心情ではなくカラダから
今回、演じる役について教えてください。
ヨシオの母親であるフミエをやります。
フミエは母であり娘であり妻であり・・・・・・女の色々を受け持っている。色んな役割のある人だと思います。フミエは台本の中だとあまりしゃべらない。
人の話を黙って聞ける人って何なんだろう、その時間って何だろうって思います。
今稽古場ででてきて、しっくり来ているのは「不感症」って言葉です。
フミエにはどんな過去があったのか。どんな悩みがあったのかな・・・・・・どうなんだろう。
フミエの背景にあるものは、なかなか捉えにくいように思えます。
私は思考の癖なのか、作品を作るときに「役」に多くの傷をつけちゃうことがあるんです。
話を盛っちゃうというか。「あ、これは虐待されていたからだ」とか。
ドラマチックに読み取って芝居をしてしまう。今回はそこにブレーキをかけようと思っています。
例えば、おばあちゃんがヨシオに暴力を振るっている時、フミエはただ黙って見ている。そういうシーンがあるんですけど、それを「自分の体験をフラッシュバックさせて見ている時間」という風にしてしまうのと、女が「ただ見ている時間」は、見えてくるものが違うと思うので。
フミエの言動の裏に「こんなドラマがあったんだ」と解釈して演じない、ということでしょうか?
私なりに過度に感じる設定を持ち込んでやる、みたいなことをしない。という事かな。
もちろん情感を捨てるわけではないんですが。
その上で、どうやってフミエがあの空間に黙って立っていたり、言葉を合いの手みたいに挟むようなことが出来る人になるのか?
今は、それを実験している気がします。
なぜ設定を持ち込むような演技を避けるのですか?
今の稽古の進み方とかももちゃんの発言からも、今回の作品ではあまりフミエの生々しさ、みたいなものは求められていなくて。
「装置として居てほしい」っていうももちゃんの言葉も自分の中で効いています。
例えば、今日の稽古でも、あたしが四つん這いでほふく前進している途中に、「このタイミングで喋んなきゃいけない」とするじゃないですか。それを人間の心情的なことだけで操作しちゃうんじゃなくて、単純にほふく前進をしていて自分のタイミングのセリフがあるから、まずその時にカラダを起こしてセリフを言ってみる。
心情からの表現じゃなくて、カラダから生まれてくる発見を積み重ねていくんですね。
もちろんそんな創り方をしない時もありますが、ももちゃんとの作業ではカラダが決まれば、どうその人を置くかが決まれば、じゃあこうしてみよう、って自ずと見えてくる事がたくさんあって。
こう(カラダを作って)やったらこんな感じになるな、こう言葉が聞こえてくるな、それで発してみて「こういうことだったのか」って思わぬ発見もある。
本当に実験的なんだけど。
最初から心情みたいなものだけを持ち込んじゃうと色々と見落としそうだし、狭まることも多くて。
ももちゃんの作品は「カラダが強い」ってたまに言われるけど、「こうだ」ってつじつまを合わせてやったことよりも、やってみてわかってくることのほうが、案外しっくり来ることが多くて。
やっぱり、自然に出てきたことの方が色んな心理に合っていたりして。
だからカラダが強くなるのかな。と。
最後に、『木に花咲く』をどんな作品にしていきたいか教えてください。
面白い作品。年明けに桜と酒を用意しておくので・・・・・・。
そうなんですよ、この作品は、新年早々暗いんです(笑)。最後に自殺しちゃう話だし。
だから暗いだけの話にはしたくない。
心地良いだけじゃないけど、見てるあいだ、お客さんがどっぷり作品の中に浸かってずっと見ていられるような時間になればいいなと思います。
おわり