approach No.3 渡邊織音ー舞台美術家のアプローチ②

January 2, 2017

②舞台美術へのアプローチ篇

 

『木に花咲く』美術案;渡邊織音 

 

 

■『水』/呼応する空間

 

織音さんの経歴から感じたポイントが二つあります。

その場に働きかけて、そこにいる人達がアクションを起こしていく環境を作っていくこと。

もう一つが、とにかく行くところ。行って思う。これはすごいですよ。

こういう経験が舞台美術に活きているところってありますか?

 

『水』のときは、今までインスタレーションをやっていた経験だけで突入したので、どうしたらいいのか手探り状態で。とりあえず出れるときはなるべく稽古は見ようっていうスタンスで関わった。

その中で、蜂巣さんしか持ち得ないだろうあの動きの演出とか、串尾くんが持つ動きとか、そういうのに呼応できるような空間を目指したんですね。

結果的に、メッシュ状のものを積層させた彫刻みたいなものを置いたんですけど。

 

「呼応する」というのは、どういうことでしょうか?

 

役者は稽古していく中で、迷うわけじゃないですか。どういうスタンスでいればいいのか、とか。そういうリアルな内面の動きが僕には面白くて。

例えば『水』のときの抽象的な動きは、普段使わない動きじゃないですか。あれが目の前に立ちはだかった時に、ああいうダイナミックな動きに対するスタティックな部分、内面で動いている核になりそうな部分が気になって、読み解きたいと思ったんです。

自然の中で、風が吹いたり、水が静かに滴り落ちたり、ちょっと静電気が起きたりするように、微妙に起こっている内面の動き。

だから、向こうが動いたらこっちも動くじゃなくて、向こうが動くからこっちは静止している。

ダイナミックな動きに対して静止するものを対置させることで、役者の微妙な内面の動きを拡張することを目指しました。

 

「役」というより「役者」の微妙な心の揺れに美術が呼応していく?

 

ディスプレイとしてじゃなくて、日々の稽古の中で感じ取った印象を表現したいと思ったんです。

作品として目の前にあることじゃなくて、もっと厚い層を持って、それまで起きてきたこととか、こういう試行錯誤してきましたとか、そういうものを全部ひっくるめて扱いたいなという気持ちがあります。

蜂巣さんの場合、半年くらい平気で稽古をやるじゃないですか。

最初から演出プランが決まっていて、具体的な指示を与えて必要なものを並べていく作業じゃないから。半年くらいじっくり時間をかけて、串尾くんから作っていくみたいな。

本人から作っていく感じだから。

 


■『木に花咲く』/童話、暴力、そして梱包へ

 

『木に花咲く』舞台美術のスケッチを持ってきて頂きましたが、その作業プロセスを教えて頂けますか。

 

最初は、絵本みたいな世界観を考えていたんです。

そういうイメージを蜂巣さんが持っていて、僕も戯曲を読んで童話的な世界観に落とし込んでいくのが良いと思った。二次元的で奥行きも影もないイメージ。

客席と舞台には明確な境界線が引かれ、現実味を帯びない空間に、ただ満開の桜が咲いている。床にはパンチカーペットが敷かれていて、タンスが一つ置いてある。そこで事が起こる。

なので、アトリエ春風舎の床のネジとか、ノイズになるものを全て排除したアンチノイズな空間が目指されていきました。

でも、その後しばらく停滞する時期に突入して。

蜂巣さんも別役実の世界に対して、あんまり自分の想像力を無茶に突きつけたくないところがあったんだと思うんですけど。

 

そうした停滞期をどうやって脱出したんですか?

 

転機になったのは、12月はじめに美術アドバイザーの鈴木さんに会ったことです。

カーペットの種類にはこんなものがあるとか、すごく具体的なアドバイスをもらって、ぼやっとしたイメージから、わりと質感を持ったイメージが立ち上がってきたんです。

そこで僕も、今までのシンプルな空間に一石を投じたいなと思って、『木に花咲く』で前面に出てくる「暴力」って何だろうと考えました。暴力と言っても、人間が人間に振るう暴力じゃなくて、空間が突きつける客席への暴力、空間の暴力性です。

それを想像したいと思った時に、例えば、道路に突然ぶっとい角材がぼんと置いてある、そういう空間的な歪みは暴力に近いんじゃないか?そういう強引な空間的コントロールをしていきたいと思った。

最終的に、クリストの梱包芸術を参照して、舞台上の何もかもを梱包するのが良いんじゃないかって案を出しました。

蜂巣さんにもウケが良くて、桜も身の回りのものも梱包することにしました。

そうやって舞台に置かれる梱包されたものは「暴力」だなっていうのがあります。

 


■ノイズvsアンチノイズの緊張関係

 

クリストは椅子や絵画からはじまって、美術館まるごと、島まるごとを梱包してしまう芸術家ですよね。

クリスト的な梱包の発想はどこから出てきたんですか?

 

匿名性に着目した部分があります。戯曲が男1・女1のような匿名性を持った人物によって編まれていることに、意味があるんじゃないかな。

まだわからないんですけど、この家族は一つのサンプル・事例で、その当時に起きた個別具体的な出来事(朝倉少年祖母殺害事件)の文脈を超えて、この家族の出来事が、いつの時代にも起こりうるとういメッセージがあるんじゃないか。

じゃあ、それを現代においてどうやって語ることが出来るだろう。そう考えた時に「匿名性の中で生きている家族」は面白いと思いました。

例えば、「昭和」の感じで舞台を作ると「昭和」の話として解釈されちゃうでしょ。そうしたものを排除していくことも、僕の中ではアンチノイズ。「今」はめまぐるしく変わっていくわけだから、フィルターは絞りたくないと思って。

具体的な時代性というノイズを消していく作業が「今」を語る上でも意味があると思います。

 

蜂巣さんとはアンチノイズや匿名性について、どんなやりとりをしたんですか?

 

ある日、蜂巣さんからリゲティとライヒのミニマルミュージックのyoutube映像が急に送られてきて。

『木に花咲く』を考えているときに、これを聞くと落ち着くっていう謎のメールが(笑)。

それで、この作品はそういうものなのかなって。現代音楽が少しずつ開発されていく中で、アンチノイズ的なアプローチが注目されていったところがあるから。

 

ミニマル・ミュージックは「匿名的な音」で音楽を作っていく形式ですよね。

 

凹凸をどんどん削っていくと何が出てくるのか?ですよね。

音楽でも音を全て消していったら心臓の音は聞こえて「あーやっぱりノイズは残ったな」みたいな話になるじゃないですか。

役者やあらゆる物質の凹凸を消していく、つまりはノイズを消していく作業が、心臓=核心に迫れる想像力を創出するんじゃないか。

 

織音さんは、アンチノイズな空間を用意することで、はじめて出てくる核心部分の「ノイズ」を見ようとしているように思えます。

 

具体的に桜がドンとあって、タンスが置かれて役者が座る椅子とかがあったら、わりと見ている側は落ち着く思うんです。

けど、それが全部、梱包されて覆われてたら、一体何が起きたのか、と。同時に均一化されている空間のなかで起こる「暴力」や「意地悪」とか「老婆の痛み」とか、色んな出来事、それは何なんだろう?ってことが際立って見えてくると思うんです。

それは結構、陰惨なというか、鮮烈なというか、残酷な感じになると思う。

ホワイトキューブの中にいて、気が狂いそうになる、みたいな。

 

アンチノイズ・匿名性・暴力性・核心のノイズ・普遍性、そういったキーワードが「梱包」の方法から浮かび上がってくるのですね。

 

置かれているけれど、消していく。描いて消したんだなっていう筆跡だけで語るというか。

それは僕にとって空間的魅力ですね。

そういう、モノとしてはあるんだけど消えている・・・・・・感触や感覚だけ残っているものに向かうほうが、蜂巣演出に対して魅力的に作用するんじゃないかとも思います。それだけ、弱く儚いものに対する敏感な動きを、蜂巣さんは演出していると僕は感じたから。

それをダイナミックに活かしていくためには、感触だけは残してノイズは消していく作業が必要なんじゃないかなと。なるべく具体的な色や形は消していく方がいい。演出の弱さ儚さ、幼児性、そういう潰したらすぐに消えちゃうというか、何もなかったことになってしまうような部分がどうしたら出せるのかなと感じてますけどね。

 

 

『木に花咲く』稽古スケッチ;渡邊織音 

 


■世代を超える桜の存在/日本人の色

 

梱包される「桜」からは、桜の枝が突き出ていますよね。梱包されて覆われているのだけど、そこから突き出ていく力が内包されている。そういう緊張関係が感じられます。『木に花咲く』には静止したような時間の中に、老婆そのものが梱包されている印象もあります。

孫のヨシオにしても、その核になる部分が家族関係の力学で見えなくさせられている=梱包されているようです。

 

桜の存在って、世代を超えているところが確実にあって。時代を貫くイメージが桜にはある。

それを囲むようにして三世代が、それぞれの時代の証人みたいになっている。

老婆は老婆の、孫は孫の、両親は両親の、それぞれの世代のギャップが静かに白熱して発火していくのを(観客は)眺めていく。

僕は最終的に時代を貫いている存在物として桜を見ていきたい。桜を梱包することで、引っ越し前夜のような印象にもなるし、いつ去っていっても良い状態、準備してある状態の緊張感・切迫感も出てくるのかなぁと思ったりします。

 

舞台に敷き詰められるパンチカーペットは、どのように発想していったんですか?

 

このパンチカーペットの「黄色」は私たちの肌の色合いに限りなく近いものです。

老婆の支配的な領域が広い舞台だと思っていたから、老婆の手の内で出来事が起こっていることを上手く表現できないかなと思っていて、「パンチカーペットの皮膚」のようなイメージが出てきたんです。

世代を超えた血のつながりから離れられない、それが皮膚によってつながっていることを表していけたらと思って、おばあさんのシワシワの皮膚と、子供の産毛、その間に毛深い人間、そういう横断するものをカーペットの上で表現しようと思いました。

 

パンチカーペットの「黄色」は、日本人の皮膚といった文脈を想起させますね。

 

差別や偏見を抜きにして、この黄色は日本人の色だ、みたいに偏ったところから考えはじめたんです。それに固執してみようと思って。

右翼的な思想というわけではなくて、日本人はこの色合いでしか生きてこれなかった島国。その中にあるたった一つの家族が起こした大虐殺が語られるんだぞ、と言い切りたかった。

そこまでローカライズしたかったから、黄色いということは、僕の中で重要。

自分で言っていることに疑問があるんだけど、日本人の色って何だ、肌色ってなんだ、そういう差別意識のようなものを自分の中で課題として持っています。

 

話を聞いていると、最終案には、それまでのアイデアが多層的に内包されているのだと感じます。

作業プロセスのなかで「これは○○です」と一言では言い切れないものが集約されてきたのだなと。ややもすると、舞台美術は意味を作って説明してしまう方向に向きがちですが、織音さんは、むしろ問いを立ち上げる方法として、舞台美術へアプローチをしている。

 

でも、強くないといけないから。

紙一重を試したいなと思ってる。何も語ってないじゃないかと言われそうだけど、強いものを感じる、それを拮抗させたいと思っています。

 

おわり

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