インタビュー連載 approach -アプローチ- 蜂巣もも①

演劇には立会人が必要なのかもしれない。

本番の舞台はもちろん、あるアイデアが作品として結晶するまでのプロセスにも、また立会人が必要なのかもしれない。

approach-アプローチ-と名付けるこの連載では、ハチス企画が現在取り組んでいる別役実『木に花咲く』が、一体どのようなアイデアや関心から生まれてくるのかを演出家・俳優・テクニカルスタッフへのインタビューを通じて明らかにしていきます。舞台が生まれるプロセスにどうぞ一時、お立ち会いください。

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No.1 蜂巣ももー演出家のアプローチ

聞き手:渋革まろん

第一回は演出家・蜂巣ももさんの登場です。

稽古場から伺える蜂巣さんの演出は、はじめに全体の設計図を用意して作られるような演劇の対極にあるように思えます。

なにか、見通せない漠然とした全体が予感されつつ、その部分部分をまさぐっていく、そうして得られた感触をなんとか言葉にして俳優に伝え、舞台装置や身体・言葉の制約を加え、蜂巣さんによってまさぐられた戯曲の感触が立ち上げられていく。

それは目をつむって演劇を見ている(触れている)ような、不思議な体感を呼び起こします。そして、舞台に置かれた俳優のカラダはどこかしらエロティックです。もちろん性欲的なという意味ではなく、エロス的な存在の位相と言いたくなる何かがある。こうした蜂巣さんの世界はどんな風に生まれてくるのか、お話を伺いました。

ハチス企画と演劇の必要性

―蜂巣さんは、京都造形芸術大学の舞台芸術学科舞台芸術コースで演劇を学んだ後、京都での活動を経て、2013年に無鄰館に入り、現在はハチス企画を立ち上げて活動されています。

ハチス企画がどういう団体なのか、簡単に教えていただけますか。

ハチス企画は無鄰館のときに自主企画として立ち上げ、15年に青年団の自主企画としても立ち上げました。よく言われる劇団の形とは違います。

色んな作家さんと組んで上演するときはハチス企画とは言ってなくて、私個人が取り上げたい戯曲があったときは私名義の企画として上演します。青年団内では若手育成企画の一つとして位置付けです。

それで13年から15年まで活動をしてきたのですが、ただ上演を行うだけでは、面白くないと思っています。

―作品発表だけだと面白くない、とは?

演劇の「作品として出来上がった部分」は一面のものでしかありません。とても大事だし魅力的な部分だと思っていますが、上演に至るまでに何を思考したとか、なにに興味があるのかということも含めて演劇は魅力的なものです。私の場合だと、物語を作って見せるだけじゃなく、戯曲を通して他者を知りたい気持ちがずっとあります。他者を知って、それを《いまここ》に立ち現せられないかと考えています。それは回り回って自分に返ってくる。

他人のことをやっているはずが自分のことも並行して知っていくような。そういう場ってすごく面白い。

ワタクシ的なもの、それから他者

―蜂巣さんは、何かしらの必要性から演劇をやっているように思えます。僕から見ると、身を削って作品を作っている印象があるんですね。

身を削るのは辛いことなのに、わざわざ削っていくところに蜂巣さんの必要性があるんだろうと。

身を削ってるなと思った瞬間っていつですか?

―蜂巣さんの言葉使いと態度からですね。

題材のテーマに身を投じているということですか?

―自分のカラダの一部を千切って言葉にして稽古場で言っているように見えるんです。

確かにそれはあると思います。

興味も、扱いたい戯曲も、何に反応するかも、基本はとてもワタクシ的なところにあって、それを人と共有できるように話をしたり形に変えています。

―今回のフライヤーには「今までモノローグをやってきた、でも今回はダイアローグに挑戦したい」という旨のことが書かれていますが、モノローグは、ある意味でワタクシ的なものが凝縮される場にもなります。

前に能の『弱法師』を演出したときに、スタッフさんから自分がなりたい姿を俳優を通してやっているのでは?と言われました。

その時の題材は盲目の少年。家も追い出されてボロボロだけど、少ない希望を持って言葉を語る。その言葉には悟りの境地もあれば、外れている部分も確かにあるが、そのまま彼はその生をまっとうするという話で。

―自分がなりたい姿だ、というのに蜂巣さんは納得したんですか?

意図したわけではないですが、その時は確かにそうなっていると思いました。

今は違うと思いますが・・・

―モノローグのときは、自分のカラダの体感を俳優にうつらせるような作業・・・・・・

今の話をしていて思ったのですが、モノローグを俳優の身体を通して扱うことは、自分は何者か?ということを確かめる場に近いと思いました。だから色んな言葉、戯曲の言葉を受け入れて、戯曲にある設定も使いながら、その他者を知ることで自分を知るみたいなことをしていたのかもしれません。

別役実のエロス

―ワタクシ的なものを立脚点にする部分と、他者を必要とする部分の往復によって、蜂巣さんの演劇活動があるのかなと思います。

今回とりあげる別役実は、蜂巣さんにとってどんな《他者》になるでしょうか?

今回は、別役実の家族への思考だと思います。思考というか別役がわーっと書いてしまった欲求のようなものが言葉の中にあります。

あるいは、『木に花咲く』に題材とされた家族の中を見てみたいという、言ってしまえばちょっと卑猥な欲求。エロティックなもの。それを形にしたときに、この人(別役)はこういう風に出したのか、こういうセリフの使い方を書こうとしたのか、セリフの隙間と隙間に何を潜めようとしたのか・・・・・・

その書き方は驚きの連続です。

―戯曲にはテーマの他に、その作家のエロスが書きつけられている、ということでしょうか? 広い意味で性的なもの、です。

うん・・・「セイ」は《生きる》の方かもしれないですね。

―蜂巣さんの戯曲の読み方を聞くと、別役実の中にある《エロス的なもの》と触れ合っているような感じがします。他者のエロス、というか。

・・・・・・上手くセリフを活用して、素晴らしく成立した俳優の姿を見ると、やっぱり興奮します。

カラダを使う、極限まで鍛錬した状態を求めていることは、一時期性的な興奮と同じものではないかと思ったこともありました。

また、緊張感が盛り上がれば盛り上がるほど、とても喜んでいる私がいます。

―なるほど。

僕は前作sons wo:『水』(作 カゲヤマ気象台)を見たときから、そして蜂巣さんと言葉を交わしていく中で、《カラダ》を強く感じていました。この《カラダ》は美的な身体とか、強度のある身体といったものではなくて、裏返された《カラダ》に触れているイメージでした。

それはもしかしたらエロス的なもの、と言えるかもしれません。僕の勝手な思い込みかもしれませんが、エロス的なものについてどう思われますか?

エロスは私の作品のものさしのようなものかも知れません。

今回は家庭内暴力を扱っていますが、孫の暴力のシーンを作っているとき、暴力は今まで会話で紡ぎ出した緊張感なり関係性を全て消し去るんです。暴力をやると舞台にいる人物の社会性や思考なんかは消えちゃって、そのあと虚無感だけがある。

そこからセリフをみんな少しずつ吐いていく。そこでの言葉は上ずっていたりとか、この人のいまの気持ちにそぐってないんじゃないかと思うことを言います。彼/彼女の気持ちは痛いほどわかるから、言葉がいかにぶっ飛んでいたとしても、わたしはこの言葉を無視出来ない。

それを見たときは、すごいものを見てしまったなという気持ちになります。

―モノローグでは、わたしの「理想のエロス的身体」が問題になっていたようにも思えます。

けれど、ダイアローグへの関心の移行は、わたしの「理想のエロス的身体」を阻む他者が介入してきたようにも見えます。

別役のダイアローグは振る舞いたいこととか、理想を全うできない作りを持っていると思います。

他人と喋っていたらドンドンとズレていってしまう。不可抗力で自分の理想からドンドン離れていく。その意味でとても喜劇と言えます。

別役の言葉の何に魅力を感じているかと言えば、止むに止まれずこう言っているとか、すごく苦しいながらもこう言っているとか、そう読み取れるところが面白くて、そこは大事にしたいです。

―これまで蜂巣さんが演出してきた戯曲とは違う言葉の質でしょうか?

別役特有だと思います。

モノローグは人物が言いたいように言える時間がありますよね。

戯曲の言葉がわりと自由だというのもあるけれど、ブレようがないというか。モノローグはブレていない文章が一番きれいだと思うけど、今回はブレている、というのをやろうとしている。もしかしたら、ダイアローグの止むに止まれずさにエロスを感じているのかもしれません。

≫次回に続きます(2016.12.16 更新予定)

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